渋谷で、のじれんが実施している共同炊事(炊き出し)に初めて参加しました。
16時から区役所仮庁舎裏の美竹公園で、洗いもんしたり物運んだりご飯よそったりで4時間ちょっと、200人分くらいのご飯とシチューを作って食べました。大変おいしうございました。これだけの人数分ともなると、鍋も釜も一抱えくらいの大きさで、野菜も米も洗いもんも見たことがないくらいの量です。
ここのように、野宿者と支援者が一緒に炊事するところは珍しいのだそうです。
渋谷で、のじれんが実施している共同炊事(炊き出し)に初めて参加しました。
16時から区役所仮庁舎裏の美竹公園で、洗いもんしたり物運んだりご飯よそったりで4時間ちょっと、200人分くらいのご飯とシチューを作って食べました。大変おいしうございました。これだけの人数分ともなると、鍋も釜も一抱えくらいの大きさで、野菜も米も洗いもんも見たことがないくらいの量です。
ここのように、野宿者と支援者が一緒に炊事するところは珍しいのだそうです。
下高井戸シネマで10月21日に見ました。TOEICの日付を一週間違えたので、ヤケクソで『カメラを止めるな』、『グッバイゴダール』と三本立てにしました。他の二本も楽しめたのですが、『万引き家族』は群を抜いていた。ケタが違うレベルの傑作です。
犯罪を紐帯とするアウトサイダーたちの疑似家族という設定からして、ケン・ローチ的に、オルタナティブな倫理をバーンと打ち出すスタイルかと思わせるのですが、作品の主眼は違うところにあります。主眼は、危機の予感の中で、登場人物各々がもつ善悪の基準や、愛のとらえ方が揺り動かされること。それでも彼らが新しい生活へ歩を進めるための折り合いを、覚悟を持って選び取ること。
きわめて奇抜な状況を、きわめて繊細に、上品に描写していて、作品の質という点でも完璧です。樹木希林の遺作であるに足る映画だと思います。
「暗黒の南イタリア農村」みたいな話かなあと思っていて、それ自体間違ってはいないのだけど、むしろ貧しく悲惨な農村に魅惑される過程を描いた本でした。
本場所の土俵で生きているのは、対戦するふたりの力士だけであって、その他は行司も呼び出しも審判も観客も、書き割りみたいなもんだ。
右四つ。豊昇龍右内掛けに行ったところを白虎左上手を引きつけて寄る。豊昇龍右下手投げで逆転をはかり、軍配豊昇龍だが、豊昇龍の左手が付くのが早く差し違え。
一木突っ張りから宗を押して出るところ、栃清龍左に開いて突き落とし。
琴太豪いきなり左上手狙い、富栄飛び込むが琴太豪左、右、左といなして突き落とし。
肥後ノ城右からいなしたので慶天海左刺さった。頭をわきのしたに入れて出たが、肥後ノ城右上手出し投げから横について送り出し。
炎鵬左で足取りに行くが、大成道がアウトボックスして押し出し。
豪風左に変わる。照強左を深く差すが豪風も左差し手を返す。豪風右首投げに乗じて照強が後ろにつこうとするが、豪風強引に右小手投げ。豪風のほうが大きいので変な感じ。
安美錦ゆっくり手を下ろすが、琴勇輝が手をつかず安美錦が嫌う。安美錦今度はちょん立ち、右に変わって回り込んで、きっちり俵の上で叩き込み。と思ったら、決まり手徳利投げだった。
北勝富士右喉輪で離れようとするが竜電下がらない。竜電左差し、右も差して、かいなをつきつけて寄り切り。竜電良い相撲だけど、北勝富士ちょっと消極的な取り口だった気がする。
突っ張り合い、勢が終始下から跳ね上げて、御嶽海叩いたところを付け入って押し出し。
たがいにぶちかまし、高安の威力が優って前に出る。しかし高安ちょっとはたいたところを付け入って左差し、右おっつけ。正代右巻き替えに出たところ高安前に出るが、正代右に開いて引き落とし。
突っ張り合いから左四つ、竜電右上手。引きつけて左差し手を返して寄り切り。
阿炎の両喉輪を耐えて阿武咲おっつけて出るが、阿炎俵の上で左にくるりと開いて叩き込み。阿武咲良い攻めで惜しかった。
突っ張り合い、貴景勝左右合わせて四発張るが御嶽海頭を下げて突き手を跳ね上げつづける。御嶽海右おっつけから押し込むと貴景勝左に開いて体勢逆転。貴景勝決めに行ったところ、今度は御嶽海俵の上で右に開いて突き落とし。見ごたえのある一番。
10年!つとめたJSOLを8月いっぱいで退職し、9月からセールスフォース・ドットコムで働きます。今後ともよろしくお願いいたします。
今月は半分以上休んだのですが、祖父母の顔を見てアーレント読んでる内に、だいたい終わってしまいました。
全体主義の運動・統治に関する論考の最後の分冊。1巻は「反ユダヤ主義」、2巻は「帝国主義」とそれぞれ題されているが、いずれも未読。3巻だけでもかなりたいへんな読書です。
全体主義の具体例として、本書はスターリン時代のソ連とナチス・ドイツを取り上げている。というよりも、これまでに類例のないふたつの体制が、しかしながら相似た形で現れたことについて論考するにあたり、ちょうどよいカテゴリが「全体主義」だった、という感じだと思う。
だいたい次のことが書かれているものと理解したけど、だいぶ粗雑なチェリーピッキングになっているはず。また、アーレント独自の用語法についても捉えきれていないはず。
暴政 *1 においては、被支配者から暴君がその不法な恣意により、恐怖を駆動力として統治を行う。恐怖によって人々は、政治的・公的生活から引きこもらされるが、私的生活までは侵犯されない。 (pp. 314-317)
一方全体主義において、指導者は運動を構成する大衆を代表しており (pp. 43-44) 、その意志は常に正しく、法である。その統治は、生活のすべての局面に浸透するテロルによって駆動される。テロルが最高の形で現れる場である収容所では、人間は政治的・公的生活に加えて私的な生活も剥奪され、差異のない単一の存在となり、最後に消される。
なお、全体主義において、常に正しいとされるのは指導者の「意志」であって、その発言や命令ではない。指導者は外部世界、あるいは運動の周縁に対して平然と嘘をつく。運動の精鋭は、それが嘘であることを知っており、意志がどこにあるかを理解する能力を持っている。 (pp. 139-141)
全体主義は、それが採用するイデオロギーに新しいものをなに一つ付け加えはしない。一方、不条理で、現実離れしているかのように見えるイデオロギーの世界観を、その組織の中でマジで実現する。虫けらであると宣言されたユダヤ人は虫けらのように殺されたのだし、その後にはポーランド人、いずれはドイツ人もが続くはずだった。現実化されたイデオロギーは、途方もない説得力を発揮する。 (p. 102-104, pp. 302-304)
一方で外部世界は、イデオロギーを単なるお題目とみなして、外交的な嘘(民主主義陣営との共闘であるとか)を現実的な本音とみなした。
次の諸点については折に触れて考えることになると思う。
アイヒマン裁判の報告。アードルフ・アイヒマンはナチス親衛隊 (SS) でユダヤ人の移送にあたった。潜伏先のアルゼンチンで拉致され、エルサレムで裁判を受けて死刑判決、同年刑死した。
ここでは、副題の「悪の陳腐さ」について点検する。
巨大な犯罪をなした人間が個人として取るに足らない人間であることは、改めて驚きとするところではない。私たちは、官吏的人物の典型であった東條を知っている。凡庸な君主であった裕仁を知っている。麾下の軍隊を統制する意志と能力を欠いており、したがって虐殺について未必の故意が認められるに過ぎない松井を知っている。
本書がこの副題のもとに述べていることは、ナチが一民族の絶滅という類のない犯罪を公式の政策としたこと、アイヒマンがそれをはっきりと理解して、その主要な一部である職務にあたったこと、にもかかわらず彼自身は凡庸で、正常であった、ということである。アーレントはその凡庸さを報告することで、「類のない巨大な犯罪を行った者は、類のない怪物的な人物に違いない」という決めつけに反駁したのであって、悪が陳腐であったこと自体から、それ以上の何かを引き出そうとはしていない。
本書の大部分は裁判報告だが、その構成は通常の裁判報告と異なる。つまり、まず事件の叙述があって、ついで訴訟、という構成は取っていない。裁かれた犯罪行為が地理的にも時間的にも大規模であることから、そのような構成は不可能だっただろう。本書は、SS官吏としてのアイヒマンの行動をほぼ経時的に記述する中で、法廷での審議についても織り交ぜて述べている。
最後の章である「エピローグ」は、犯罪としてのホロコースト、法廷、個人の罪などについて議論している。
なお、本書が何を書き、何を書かなかったかについては、巻末の「追記」、および『責任と判断』所収の「独裁体制のもとでの個人の責任」で、著者自身が整理している。