ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン: 悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳, 訳書2017年)

アイヒマン裁判の報告。アードルフ・アイヒマンナチス親衛隊 (SS) でユダヤ人の移送にあたった。潜伏先のアルゼンチンで拉致され、エルサレムで裁判を受けて死刑判決、同年刑死した。

ここでは、副題の「悪の陳腐さ」について点検する。

巨大な犯罪をなした人間が個人として取るに足らない人間であることは、改めて驚きとするところではない。私たちは、官吏的人物の典型であった東條を知っている。凡庸な君主であった裕仁を知っている。麾下の軍隊を統制する意志と能力を欠いており、したがって虐殺について未必の故意が認められるに過ぎない松井を知っている。

本書がこの副題のもとに述べていることは、ナチが一民族の絶滅という類のない犯罪を公式の政策としたこと、アイヒマンがそれをはっきりと理解して、その主要な一部である職務にあたったこと、にもかかわらず彼自身は凡庸で、正常であった、ということである。アーレントはその凡庸さを報告することで、「類のない巨大な犯罪を行った者は、類のない怪物的な人物に違いない」という決めつけに反駁したのであって、悪が陳腐であったこと自体から、それ以上の何かを引き出そうとはしていない。

本書の大部分は裁判報告だが、その構成は通常の裁判報告と異なる。つまり、まず事件の叙述があって、ついで訴訟、という構成は取っていない。裁かれた犯罪行為が地理的にも時間的にも大規模であることから、そのような構成は不可能だっただろう。本書は、SS官吏としてのアイヒマンの行動をほぼ経時的に記述する中で、法廷での審議についても織り交ぜて述べている。

最後の章である「エピローグ」は、犯罪としてのホロコースト、法廷、個人の罪などについて議論している。

なお、本書が何を書き、何を書かなかったかについては、巻末の「追記」、および『責任と判断』所収の「独裁体制のもとでの個人の責任」で、著者自身が整理している。