ハンナ・アーレント『全体主義の起源』第三巻「全体主義」(大久保和郎, 大島かおり訳, 訳書2017年)

全体主義の運動・統治に関する論考の最後の分冊。1巻は「反ユダヤ主義」、2巻は「帝国主義」とそれぞれ題されているが、いずれも未読。3巻だけでもかなりたいへんな読書です。

全体主義の具体例として、本書はスターリン時代のソ連ナチス・ドイツを取り上げている。というよりも、これまでに類例のないふたつの体制が、しかしながら相似た形で現れたことについて論考するにあたり、ちょうどよいカテゴリが「全体主義」だった、という感じだと思う。

だいたい次のことが書かれているものと理解したけど、だいぶ粗雑なチェリーピッキングになっているはず。また、アーレント独自の用語法についても捉えきれていないはず。

暴政と全体主義の区別

暴政 *1 においては、被支配者から暴君がその不法な恣意により、恐怖を駆動力として統治を行う。恐怖によって人々は、政治的・公的生活から引きこもらされるが、私的生活までは侵犯されない。 (pp. 314-317)

一方全体主義において、指導者は運動を構成する大衆を代表しており (pp. 43-44) 、その意志は常に正しく、法である。その統治は、生活のすべての局面に浸透するテロルによって駆動される。テロルが最高の形で現れる場である収容所では、人間は政治的・公的生活に加えて私的な生活も剥奪され、差異のない単一の存在となり、最後に消される。

なお、全体主義において、常に正しいとされるのは指導者の「意志」であって、その発言や命令ではない。指導者は外部世界、あるいは運動の周縁に対して平然と嘘をつく。運動の精鋭は、それが嘘であることを知っており、意志がどこにあるかを理解する能力を持っている。 (pp. 139-141)

イデオロギーの役割

全体主義は、それが採用するイデオロギーに新しいものをなに一つ付け加えはしない。一方、不条理で、現実離れしているかのように見えるイデオロギーの世界観を、その組織の中でマジで実現する。虫けらであると宣言されたユダヤ人は虫けらのように殺されたのだし、その後にはポーランド人、いずれはドイツ人もが続くはずだった。現実化されたイデオロギーは、途方もない説得力を発揮する。 (p. 102-104, pp. 302-304)

一方で外部世界は、イデオロギーを単なるお題目とみなして、外交的な嘘(民主主義陣営との共闘であるとか)を現実的な本音とみなした。

論点

次の諸点については折に触れて考えることになると思う。

*1:p. 295の訳注によれば、モンテスキューの区分法における「専制政体」を、アーレントは「暴政」と記述している。