中里成章『パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判』

パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判 (岩波新書)

パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判 (岩波新書)

東京裁判A級戦犯全員無罪の意見を出したパル判事の評伝。筆者はインド近現代史の人みたい。

要約

来歴

パルは、法曹としては所得税法を専門とする腕利きの弁護士であり、法学者としてはヒンドゥー法を専門とした。人脈としては、チャンドラ・ボース(大戦中は日本の協力者だった)、およびヒンドゥー大協会に近く、インドの文脈では右翼の中道寄りに位置したと見られる。カルカッタ高等裁判所の判事代行を二度務め、東京裁判の直前までカルカッタ大学の副学長の職にあった。

東京裁判の判事への就任

パルは正規の判事に就いたことがなかったので、東京裁判に参加するにあたって適格性が問題視された。また、国際法は専門外だったので、就任後に勉強する必要があった。

いわば門外漢のパルが選ばれた理由は、判事選出に時間的余裕がなく(インドが代表を出すことが決まってから開廷まで一ヶ月弱!)、選出期日を過ぎても適任者が得られなかったため。各地の高裁に募集が掛けられ、最初に手を上げたパルが選出されたが、結局開廷には間に合わなかった。

判決意見書

東京裁判では被告に対して「平和に対する罪」と「通例の戦争犯罪」が問われた。パルはすべての被告を無罪とする意見を出した。

この内「平和に対する罪」について、パルは国際法を狭く厳密に解して、事後法であるから適用できないとした。

「通例の戦争犯罪」についても、国際法を狭く解して全員を無罪としたが、こちらには無理が目立つ。たとえば、南京事件について裁かれた松井石根に関して、弁護側は事実認定を争わなかったが、パルは弁護側にかわって証拠に対する全般的な疑念を投げかけ、無罪としている。

これら意見について著者は、日本を反欧米植民地主義、反共産主義のチャンピオンに仮託する立場から、なにがなんでも無罪、という方針で書かれたものとみなしている。また、次の点で批判している。

  • 国際法秩序を、欧米植民地主義を正当化するものとして非難しながら、その国際法を字義通りに解釈することで無罪論を組み立てており、内的に一貫していない。
  • 欧米の植民地主義を非難しながら、日本の植民地主義を不問に付している。
神話化

日本国内では、東京裁判そのものへの関心が薄かったことから、パルの意見書も、同時代にはあまり注目を集めていない。

パルが脚光を浴びたのは、占領統治が終焉し、逆コースがはじまる1950年代以降。平凡社の創業者であり「大亜細亜協会」の理事長だった下中弥三郎、および秘書格だった田中正明などが初期において主な役割を果たしている。1952年に田中が『日本無罪論』によってパル意見書を紹介し、同年、翌1953年に、下中が中心となってパルを日本に招聘した。パルは戦犯やその家族に多く面会し、戦犯釈放運動に一役買った。

アジア主義者を自認し、下中と親密だった岸信介東京裁判で戦犯指名されるが不起訴)もパル復権に関わっている。『日本無罪論』の出版には岸の助言がきっかけのひとつとなっており、下中死後の1966年にはパル最後の訪日を主導している。孫の安倍晋三は首相時代の2007年の訪印の際にパルの息子に面会した。

こうした中で、パルに関して次のような神話が形成された。

感想

一応人物評伝の形態を取っているが、見返しに「『パル神話』に挑む」とあるように、作られたイメージに実態を引き比べる、という興味で書かれている。結果として、人物に関する評価としては若干バランスを欠いた部分が見受けられる。たとえば、パルが法曹として最上級の出世を遂げられなかったことを強調し、とりわけ正規の高裁判事に就けなかったことをもって「パルの気持ちには苦いものが残ったにちがいない」 (p. 72) と書いている。前述のようにカルカッタ大学の副学長を務めたこと、東京裁判以降、国連国際法委員会委員や常設仲裁裁判所判事を務めたことを考えれば、この点を強調する必要はないんじゃないかと思う。

本書を読む限り、パル意見書の内容には、大アジア主義や「大東亜共栄圏」に響き合うところがあって、それが岸・下中らのバックアップをもたらしたんだろうと推察するんだけど、この点については明確に書かれていなかった。