8月31日 桜木町反天皇制集会。「責任」?「謝罪」?

8月31日の桜木町での集会「天皇制に終止符を! 『代替わり』で考える『天皇制』の戦争責任 」に参加。WAM館長の渡辺美奈さん講演のあと、堀江有里さんとの対談、そして場内交えた議論。「反天皇制運動」のありようについて、参加者に問いかけを突きつける内容で、とても刺激的でした。

渡辺さんが女性国際戦犯法廷の意義として語ったこと。「最終的な責任者は天皇である」と観念的に言ってしまったり、あるいは「日本国民全員に責任がある」のようにボカしてしまったりすることを拒否して、個々の事象につき、誰がどのようにかかわり、したがって責任を負うべきなのか、明らかにして、決める、ということ。

「記憶をつなぐ戦い」として、アーカイブの構築を進めている。文書はまだしも残りやすいが、声や映像は、持ち主の死などを契機として、簡単に散逸して、世の中から消えてしまう。その前にアーカイブ化しなきゃならない。これは、あらゆる社会運動について言えることだ、と思う。

謝罪について。ゆるしや和解を期待して行われる謝罪は、本当の謝罪ではないのではないか。

最後、参加者交えた意見交換では、韓国の文喜相国会議長による天皇明仁(当時)への謝罪要求を題材として、天皇に謝罪させることを運動として目指すべきか、議論されました。以下、自分自身の混乱した考え。

天皇であれ誰であれ、責任を問い、謝罪を要求することが、正当であることは当たり前だ。天皇が象徴であって政治的エンティティでない、などということは、日本国内でのみ通用する擬制に過ぎない。というかそれが実際の運用において、君主無答責、「神聖にして侵すべからず」の衣替えでしかない、ということは、文氏発言への反応を通じてあらためて明らかになった、と思う。

文氏自身は被害者ではない、ということは留意する必要がある。でも、留意ってどのように?なにを留保するの?

遠くない将来に徳仁が、たとえば植民地支配の責任について謝罪する、ということは、絵空事ではなく充分にあり得る。シアヌークやフアン・カルロスを見れば明らかに、君主制にとってそのくらいの機転は屁でもない。それが「和解」の役に立つ、ということ、それ自体が天皇制の足場を固めるだろうことも、たとえば沖縄における天皇の受容を見れば想像がつく。そのような「和解」はしてはならない、と思う。

集会が終わってから渋谷にとってかえし、翌週の渋谷秋祭りを準備する寄り合いに、遅れて参加しました。