安保法案に関する高村発言について。フザけんなコノヤロー

4日の衆議院憲法審査会で、長谷部・小林・笹田三氏がそろって安保法案を違憲だと発言しました。

これを受けて自民党高村正彦が、「憲法学者はどうしても憲法九条二項の字面に拘泥する」と述べました。

この記事を読んで、まずは驚きました。高村はここで、彼自身が代表としての権限を付与されているところの支配の正統性を嘲笑い、ゴロツキ的に力の支配を宣言している、と感じたからです。のちに述べるように、この感想はことの本質を見誤っています。

いうまでもなく(ということに後で留保を付ける)、日本国は立憲主義の国家です。したがって、日本国の政府・議会が市民を代表すること、そこで政策を遂行することの正統性は、憲法の規定をもって成り立っているはずです。高村自身の代議士としての権限も同じくであり、だからこそ彼を含む公務員には憲法擁護義務が課せられているわけです。

しかし高村発言において憲法は、自衛隊海外派遣という具体的な政策を遂行するための単なる手段、あるいはチンケな障害物として扱われています。もちろん政治家がそのように考えることは珍しくもないのでしょうが、公の場でこのような発言が行われた、ということは重要です。先に述べたとおり、これは彼自身の権限・権力の正統性をも覆すものだからです。みずからの権力の正統性を一顧だにしないのであれば、それはゴロツキ的、ファッショ的な力の支配の宣言です。高村のような生粋のエスタブリッシュメントが、こんなゴロツキのような発言をするとは信じがたい。マジかよ、と思ったわけです。

このような理屈をもって驚愕にたどりついたのですが、高村のように小心の人物が、ファッショ的なニヒリズムを宣言した、とはどうしても考えづらい。そもそも彼に、自身の権力の正統性を覆しているという認識があるとは思えないし、実態としても覆されていないんじゃないのか、という。実際彼が自民党の役員を辞するとか、議員をやめるとかいった話はとんと聞かない。

そもそも上で述べた理屈は、日本の議会や政府が、マックス・ウェーバーのいうところの合法的支配の体制である、という前提に立っています。ところが、高村の代議士としての立場は、実態として親からの相続によっているのだし、同僚の議員の多くが似たようなものです。だとすれば、立憲主義にもとづく合法的支配は、とりつくろわれたタテマエに過ぎないのであって、彼らにとっての実態は世襲その他にもとづく伝統的支配です。憲法を軽んじたところで、みずからの立場はビクともしないわけです。

このような伝統的支配は、とてもじゃないが正統なものとして認めるわけにはいきません。また彼らも、(天皇家をのぞいては)世襲的その他の権力を表立って正当化することはできないはずです。この点において、タテマエとしての立憲主義は、実質的に機能させることができます。つまり私たちは、彼らに代表権を付託している主権者として、フザけんなコノヤロー、と言わなければならない。

フザけんなコノヤロー。

字面と自衛権

というかそもそも、憲法9条2項はあきらかに軍事力の保持を禁止しているのであって、そこで(枝葉末節としての)字面をひねくりまわしてきたのが、日本国憲法下の「自衛権」の歴史じゃねーか。「字面に拘泥」してるのはどっちだよ。