新横綱稀勢の里の優勝と映画『スモーク』

12日目までの稀勢の里は、前場所を踏襲するように、押されても崩れないどっしりとした腰、落ち着いて受け潰し、勝機を逃さずきっちり詰める盤石の相撲。しかしこの取り口では、13日目に当たる日馬富士には通用しないことは明らかでした。

日馬富士白鵬と並んで、稀勢の里の前に立ちはだかる大きな壁でした。実際のところ、まだ本当は乗り越えられていない壁です。白鵬を倒して綱取りを決めた先場所、稀勢の里日馬富士と当たっていません。土付かずの新横綱にとって、13日目の日馬富士戦は、真価が問われる正念場だったと言えます。そして日馬富士は、星の上がらない不調の場所でも、ここと決めた一番相撲は爆発的な攻めで相手を粉砕する人です。

果たして13日目の結びの一番、日馬富士の鋭い右踏み込みに稀勢の里は体が浮き、突き落としも効果なく吹き飛ばされ、さらには土俵下で左肩をしたかたに打ち、激痛に座り込んでしまいました。悪夢です。

強行出場の翌日鶴竜戦はまるで相撲にならず。もう何でもいいから休んでくれ。見ちゃいられねえ。ひたすら気が滅入るばかりです。

対戦相手の照ノ富士を、星の上ではひとつ追うかたちで迎えた千秋楽、あまりの痛々しさに幕内の相撲は見る気にならず、ゴロゴロ下高井戸シネマまで転がって、ポール・オースター原作・脚本の『スモーク』を見ていました。すっげえオースター的な、素敵な作品で、映画館を出たら、外の世界でもオースター的なことが起きていました。

実のところ、オースター的と思ったのはあとの話で、最初はロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』の結末みたいに、超現実的な采配であり得べからざることがおきたような、狐につままれたような思いでした。

怪我を押しての優勝で思い出されるのはなんといっても貴乃花ですが、既に功成り名遂げて、ぶっ壊れてでもプライドに掛けて勝ちたかった貴乃花とは状況が違いすぎる。稀勢の里はこれからが花の人です。そんな無謀な相撲を取るはずがないし、取ってほしくない。

あとから本割と決定戦の二番を見て、顛末が理解できました。いつもは左からの攻め一本槍で、右手は添えるだけの稀勢の里が、今日は左を無理せず遊ばせて、ひたすら右に回り込んで右から突いて、出て来る照ノ富士をかわしきった、という相撲。稀勢の里は思っていたよりずっと強くて賢かった。少しだけ安心しました。

とはいえ、本当は休んでほしかった。今場所優勝を逃したからといって、別にどうということはなかったのだから。安静にするべき時期に横綱大関と三番も相撲を取ったことで、負ったダメージはゼロではなかったはずです。

横綱の優勝をよろこぶとともに、全快を祈ります。休場の白鵬も、満身創痍の日馬富士照ノ富士も。彼らが元気でなけりゃ、相撲は暗闇です。