丸山邦男(1975)『天皇観の戦後史』、白川書院

天皇観の戦後史 (1975年)

天皇観の戦後史 (1975年)

著者はジャーナリストで丸山眞男の弟。『現代の眼』、『流動』、『創』といったアングラ雑誌を中心として掲載された、天皇制、というかどっちかといえば昭和天皇その人にまつわる問題についての記事をまとめた本。

昨日までのことは知らんぷりで象徴天皇とそれと結託した日米政府にすり寄る右翼を、天皇制を封建遺制として片付けてまともに問題化しない共産党新左翼党派を、天皇「制」に拘泥して昭和天皇その人をほっぽってる進歩的文化人*1を、「象徴」になりおおせて政治責任から逃げまどう昭和天皇を、かたっぱしから攻撃しています。一方で、象徴天皇を批判して腹を切った三島由紀夫や、「ヤマザキ天皇を撃て!」の奥崎謙三のことは、ともかくも一貫しているとして褒めています。

自分がわざわざ、この歳月に埋もれた本を引っ張りだして読んだ理由は、著者の兄である丸山眞男天皇制論にまやかしがあると思っていて、その批判のとっかかりがあるような気がしたからです。「超国家主義の論理と心理」において、無責任の体系の頂点にあるべき天皇の国家に対する責任を、皇祖皇宗に投射されるものとして書いたのは、(少なくとも)結果として天皇個人を免責する言説になってんじゃない、という。著者もまさに同じ問題意識を持ってるみたいで、丸山眞男をほぼ名指しで批判しています。

(引用者註: 対米開戦前の御前会議で、昭和天皇が杉山参謀総長の見通しについて問い詰めたエピソードを引いて)。陸軍参謀総長に対して、いい加減に「アア、ソウ、シッカリヤレ」などといわなかった天皇は、政治家としても統帥者としても、確固としてすぐれた見識の持ち主であったことを物語るひとこまではないか。その意味では、天皇をロボットであるとし、軍部にあやつられた“恍惚人間”として軽視し、そのような天皇の権限を至上絶対のものとした戦前の<絶対天皇制>に対し、あれは「無責任の体系」だったという定義を下した近代デモクラシーの復権*2たちの思想は、まことに犯罪的であり、戦争裁判を通じて、国民大衆の天皇呪詛の感情をそらし、さらに、天皇個人の責任を免罪することによって、より無責任な「象徴天皇制下の戦後民主主義政治体系」を、なし崩しに容認し、国民の中から戦犯追求のホコ先が天皇に向けられるのを巧妙にそらす役割を果たしたことになる。(pp. 156-157)

ただ本書は、著者がまえがきでことわっているように、理論化を目指したものではないので、これ以上はない。あとは自分で考えることです。

本書を知るきっかけとなった id:takamm さんの下記記事を読み直したら、自分の記事は、引用部含めてほとんど引き写しみたいな内容になってました。すみません。*3

*1:最近聞かなくなった言葉です。

*2:言うまでもなく、名指されているのは丸山眞男です。

*3:8月1日追記。