ハンナ・アーレント『暴力について』

ハンナ・アーレントの論集『暴力について』(みすず書房、2000年、原著1972年)は、1969年〜1971年にかけて書かれた三つの論評「政治における嘘」、「市民的不服従」、「暴力について」、および最後の論評についてのインタビュー記事「政治と革命についての考察」からなっています。それぞれの論評は、ベトナム戦争における国家の嘘・ベトナム反戦・学生の反乱について、同時代の視点から書かれたものです。

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

「政治における嘘ーー国防総省秘密報告書についての省察ーー」(1971年)

タイトルの「国防総省秘密報告書(ペンタゴン・ペーパーズ)」は、アメリカ合衆国インドシナベトナムに介入する中で行われた意思決定の過程についての報告書です。現在では機密指定が解除されていますが、アーレントの論評は、この報告書の内容が1971年にニューヨーク・タイムズに暴露されたことを受けて書かれたものです。

著者は国防総省首脳部における意思決定の過程に「欺瞞、自己欺瞞、イメージづくり、事実からの乖離」といった諸相を見出します。たとえば:

  • 地上軍投入以前の段階(1965年)ですでに、実質的な勝利という目的は取り下げられ、以降は「世界の最強国」というイメージを守ることが究極的な目的とされた。(pp. 15-16)
  • このような究極的な目的としての「心の問題」を解決するために、首脳たちは政策をとっかえひっかえ、それら政策がイメージに与える影響を計算し、評価し続けた。このような計算は結局、戦争そのものとは無関係のものである。(pp. 33-36)
  • 諜報機関は現地の事情に即した情報を一貫して報告しつづけていた。これらの情報は、国防総省首脳部の問題設定・問題解決のモデルに合致しない偶発的な事象として常に無視された。(pp. 20-21)
  • ラオス南ベトナムの共産化が、カンボジアを越えて東南アジア全域に波及するだろうという理論(ドミノ理論)を本気にしているものはほとんどいなかった。にもかかわらず、ドミノ理論は戦争目的に関する公式見解の前提とされ、また彼ら自身の意思決定の前提ともされた。(pp. 22-23)

著者はまた、「政府はしかるべく機能しうるためには国家機密を必要とする」という考えが疑問に付されたことを指摘します(p. 29)。報告書中に書かれたことの中で、公衆に知られていない目新しい事実はほとんどありませんでした(p. 44)。そのうえ、ホワイトハウス国務省は、この秘密報告書の存在自体を突き止められませんでした(p. 28)。

一方で著者は、秘密報告書の内容がほとんどあらかじめ公知であったことは、アメリカにおいてジャーナリズムが健全に機能していることを示唆している、とも指摘しています(pp. 43-44)。

「政治における嘘」に関する考察

丸山眞男の「軍国指導者の精神形態」と引き比べて読むと面白そうです。丸山は日本の指導者が、曖昧模糊とした大言壮語を口走りながら、一方でみずからの職務の権限範囲に逃避し、それらを合理的に関連付けないことによって事態が進むに任せた(しかし彼らは指導者なのだから、「事態を進めている」のは彼らなのである)ものとして描写しています。一方でアーレントの描く国防総省首脳は、現実をはなから切って捨てて、まったく観念的なモデルを作り上げて、合理的な計算とアドホックな政策によって戦争を泥沼へと推し進めています。まったく異なる精神形態でありながら、直接的な帰結は似通っています。

「市民的不服従」(1970年)

市民的不服従運動と法秩序に関する議論を受けて、市民的不服従アメリカ法の中でどのように正当化できるかを考察した論考です。

主な考察は次の通り。

  • 市民的不服従を法体系の中で正当化するのは困難。これはアメリカ法の性質によるのではなく、法の違反を法自体が正当化することは難しい、という一般的な事実による。(p. 92)
  • 一方で市民的不服従は、アメリカ法の基盤となった伝統において枢要をしめる自発的結社の一種とみなせる。 (p. 88)

著者は、アメリカにおける社会契約が必ずしも擬制ではないことを指摘します。これは、異論を唱える権利のある人が異論をとなえないでいたとすれば、それは暗黙に同意しているものとみなされるべきだからです(pp. 80-81)。しかしながら、政府は議会の同意を得ないカンボジア侵攻など、頻繁に憲法を踏みにじり、したがって社会契約を破っているのだから、既に同意は撤回されているとみなさざるをえない。これは「第一級の憲法上の危機」です(p. 82)。

著者は、この危機において、社会契約が行われる基盤となった「法の精神」、およびその発露としての伝統である自発的結社の一種である市民的不服従が、政治的な役割を果たせるのかもしれない、としています(pp. 76, 93-95)。

また著者は、自発的結社は多数決の原理によっているのではなくて、むしろ少数者がみずからの政治的な力を強め、多数派に対して行使するするものであることを(トクヴィル、およびその評者のミルを肯定的に引きながら)指摘します。これはもちろん危険であり、いかがわしいロビイストの一群として既にその危険が顕現しているのですが、しかしそれは多数派の暴政というさらに大きな危険に対する予防策でもあります。(pp. 84, 88-89)。

「市民的不服従」に関する考察

アーレントアメリカの社会と法の伝統に状況をしぼって書いています。一方で、日本にあって、たまにデモに行ったり集会に参加したりする人間としては、不服従に限らず異議申し立ての運動一般を日本においてどう正当化するか、ということについて考えたい。正当化なんかいらない、やりゃあいいんだ、という考えもあるわけだけど、正当だと思ってるから活動するわけで、その理屈付けはやらないよりはやった方がいい。

「暴力について」(1969年)

新左翼学生運動が、歴史を転回させる契機として暴力を礼賛していること、およびその理論的支柱となっているサルトルやファノンの主張に対する批判的論考です。とりわけ毛沢東の「権力は銃身から生じる」というスローガンに対抗して(p. 105)、暴力は権力を破壊しはしても、作り出すことはない、と主張しています(p. 145)。

著者によれば、マックス・ヴェーバーをはじめ、左翼・右翼を問わずほとんどあらゆる論者は、他人に対して正統的に行為を強制できる能力として権力を定義し、また「暴力を権力の最もあからさまな顕現と定義」しています(pp. 125-127)。しかしながらこれは大間違いであって、「権力の極端な形態とは、全員が一人に敵対するものであり、暴力の極端な形態とは、一人が全員に敵対するものである」(p. 131)、つまり正反対のものであると著者は主張します。

権力(power)・力(strength)・強制力(force)・権威(authority)・暴力(violence)、以上の語についての著者の定義は次のとおりです(あんまり整理された気がしないんですけど)。

権力 (power)
「他者と一致して行為する人間の能力」(p. 133)。したがって権力は究極的には人民に属する。
力 (strength)
なんらかの実体の特質(p. 134)。どんな「特質」かアーレントは明示してないんだけど、まあだいたい分かります。その実体がいかに強いかを表す特質、ということでしょう。
強制力 (force)
なんらかの運動から発生されたエネルギー。 *1
権威 (authority)
「それに従うように求められた者が、疑問を差し挟むことなくそれを承認することによって保証される」もの(pp. 134-135)。
暴力 (violence)
「道具を用いる (instrumental) という特徴によって識別される」(p. 135)*2

以上の整理の上に立って著者は、暴力と権力が正面衝突したときは、常に暴力が勝利をおさめるが(宮川による例: どんなに大規模でよく組織された熱いデモや集会も、軍が戦車を突っ込ませたらひとたまりもない)、そこにおいて暴力の担い手は自らの権力の基盤である人民の一致をむしばむという代償を負うことになります(p. 143)。この意味において、「暴力は権力を破壊することはできるが、権力を創造することはまったくできない」(p. 145)。

「暴力について」に関する考察

暴力と権力を厳格に区別するべきだ、という主張は正当です。しかし、「暴力は権力を破壊することはできるが、権力を創造することはまったくできない」という主張については、明確に間違っていると考えます。

つっこみどころは二段階に分けられます。

ひとつめのつっこみどころは、結局アーレントが論じている暴力の形態は、少数の支配者が行使する多数の被支配者に対する暴力だけであるということです。「暴力の極端な形態とは、一人が全員に敵対するものである」とアーレントは述べていますが、「一人/少数者に対する全員の暴力」や「外部に対する共同体全員の暴力」を「極端な形態」と呼んでまずい理由はないと思われます。

ふたつめのつっこみどころは、とりわけ「一人/少数者に対する全員の暴力」の形態において、「暴力が権力を創造する」ことは現実に起きる、ということです。

少数の「支配者」に対する暴力としては、フランス革命ロシア革命における王族に対する暴力と、それに引き続く革命権力が例示できます。ただしアーレントの考えでは、これらは人民が既に新たな権力を確立したところで行われた、副次的な暴力の発現とみなされるのかもしれません。

より興味深いのは、支配者でない少数者に対する全員の暴力です。これはルネ・ジラールが「いけにえに対する暴力」として主張したものの典型であり、これはまさにアーレントの言う「権力(=共同体の一致)」を作り出すものとして提示されています。ジラールは『暴力と聖なるもの』において、共同体の危機(疑心暗鬼、信頼の崩壊、アーレントの言う「権力」の崩壊)において、共同体の周縁にいる少数者(理念的には一人)に対して危機の責任を押し付ける同意が生まれ(疫病を持ち込んだのはあいつだ!)、共同体全員の暴力がふるわれ、結果として疑心暗鬼が消え去り、共同体が再度結束する(アーレントの用語法では、「権力」が再生する)、というメカニズムを提示しています*3。このメカニズム自体は実際そうだよね、と言わざるをえない。ここで近世東欧におけるポグロムや、関東大震災の際の朝鮮人虐殺を思い起こしてもいいし、ベッキーに対するバッシングを思い起こしてもいいのですが、よりプリミティブな例として、小説ではありますが、ボルヘスの「じゃま者」という短編を紹介します。

「じゃま者」の主人公は仲の良いガウチョの兄弟。兄貴が女を連れて帰ってきてよろしくやってたのが、弟がこれに横恋慕してギクシャクしはじめる。なんだかんだあって、兄弟で女を「共有」するようになるんだけど、やっぱりどうもうまくない。結局は諸悪の根源である女を殺して埋めて、兄弟ひしと抱き合って泣く、という話。「男社会」ってまさにこれですよね。

というわけで、アーレントは暴力が発揮される状況としてごく限られた状況を想定しており、それ以外の状況においては、まさに暴力が権力を創造することがあり得る。それは単なる偶然とか同時発生ではなくて、前者が後者を生み出すようなメカニズムによって説明できる、と言えます。

もうひとつ、アーレントがファノンやサルトルを単なる暴力の礼賛者として書いていることについて。「ちげーぞ!」とは思うのですが、どう違うのかよく分かってないこと、アーレント自身があんまり筆をつくしていないこともあるので、「ちげーぞ!」にとどめておきます。

*1:んー?よくわからん。

*2:instrumentalの訳は「手段的」の方がよいのではないかと思うのですが、p. 131では「後者(引用者註: 暴力の極端な形態)は道具がなければおよそ不可能である」とも主張しているので、「道具的」で正しいのかも。

*3:自分の卒論「ルネ・ジラールの聖暴力論の射程」: http://ripjohn.net/article/2008_01_31_sotsugyourobun.pdf