- 作者: 酒井隆史
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2004/05/21
- メディア: 単行本
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10年振りに再読しました。まとまった感想というものがないので、ツイートを引用してお茶を濁します。
酒井隆史『暴力の哲学』を10年振りに再読了。暴力とそれに関連する諸領域、とりわけ(非暴力)直接行動について、さまざまな考え方を紹介している。再読のきっかけは、ヘイトスピーチへの批判を、「運動」へのバックラッシュに転倒させるような動きに対して、ふざんけんじゃねーぞ、と思ったこと。
— 宮川 拓 (@miyakawa_taku) 2014, 12月 23
前掲書p.39よりキング牧師の孫引き。「非暴力直接行動のねらいは、話し合いを耐えず拒んできた地域社会に、どうでも争点と対決せざるをえないような危機感と緊張をつくりだそうとするものです」。
— 宮川 拓 (@miyakawa_taku) 2014, 12月 23
こっから自分の考え。街頭で情宣やデモに出くわした時の居心地の悪さ、あるいは無視や冷笑などの(たぶん防御的な)態度、高市早苗による「仕事にならない」発言は、おそらく本質的な反応だ。つまり直接行動は、安心しきった街頭を引っ掻き回そうとするものだから。
— 宮川 拓 (@miyakawa_taku) 2014, 12月 23
もうちょっと考える。橋下徹や堀江貴文による「運動なんか無駄だから立候補しろよ」的な発言について。もちろん議会を否定するものではないけれど、単純に無駄じゃないよね、と思う。顕著な例として、辺野古への基地移設は、直接行動によって現実に十数年阻まれている。
— 宮川 拓 (@miyakawa_taku) 2014, 12月 23
ぼくが卒論で取り上げたルネ・ジラールは、本書では言及されていない。ジラールは、たとえば国家による制度化や、「対抗暴力」としての意味付けなどを剥ぎとった、暴力そのものの仕組みを、周縁的な存在(贖罪の山羊)の排除によって共同体を団結させるものとしてモデル化している。
— 宮川 拓 (@miyakawa_taku) 2014, 12月 23
ジラールの暴力論はベンヤミンのそれと近接しているのだけど、ベンヤミンが「神的暴力」と「神話的暴力」を(論旨の飛躍でもって、とぼくには見える)区別するところを、ジラールは完全に同一のものとしてとらえる。ジラールにとって暴力は常に同一だ。それは正しい分析だと思う。
— 宮川 拓 (@miyakawa_taku) 2014, 12月 23
ただ、ぼくが生きている場であり、考えたり行動したりする対象でもある「この社会」は、さまざまなフィクションや意味付けによって「現実に」基礎づけられているわけだから、単にそれを剥ぎ取ればいいってわけでもない。ジラールの興味はそこにはなかった、というかそこには意味を見出さなかった。
— 宮川 拓 (@miyakawa_taku) 2014, 12月 23
本書に戻ると、ポール・ヴィリリオの言ってることは、やっぱりなんだか分からない、と思いました。なんか面白そうな気はするんだけど、何言ってんだか分からない。
— 宮川 拓 (@miyakawa_taku) 2014, 12月 23